
運命の分かれ道
天明2(1782)年頃、江戸時代最大の飢饉(ききん)・天明(てんめい)の大飢饉(だいききん)が発生したことで、意次の運命は大きく変わります。
天明2(1782)年から天明8年にかけて、90万人以上の死者を出したとされるこの大災害(異常気象)は、意次の評判を大きく落とします。
さらに天明4(1784)年、嫡男(ちゃくなん)の意知(おきとも)が刃傷(じんじょう)事件をきっかけに死亡。
同6年には、10代将軍・家治(いえはる)が死去しました。
これによって意次は失脚(しっきゃく)し、領地や屋敷は没収されてしまいます。
天明8(1788)年には相良城が取り壊され、城地はただの畑地になってしまいました。