田沼意次は、江戸中期の政治家として教科書に必ず載っているほどの有名人です。
しかし、現在の牧之原市にあたる地域に領土を持っていたことは、あまり知られていません。
では、どのような経緯でこの地にやって来たのでしょうか。
田沼氏の由来は、鎌倉時代に佐野重綱(さのしげつな)という人物が、下野国(しもつけのくに)阿蘇郡田沼邑(あそぐんたぬまむら※現在の栃木県佐野市田沼町)に住み、田沼姓を名乗ったことに始まります。
子孫は主に関東で活躍しました。
しかし、江戸時代に入ると紀州(現在の和歌山県)に移り、御三家の一つ・紀州徳川家の家臣になりました。
西暦(年号) | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1719年 (享保4年) |
1歳 | 7月 幕府旗本・田沼意行の長男として、江戸・本郷弓町で生まれる。 |
1732年 (享保17年) |
14歳 | 7月 将軍・吉宗に初お目見えし、田沼家相続を許可される。 |
1734年 (享保19年) |
16歳 | 徳川家重の西丸小姓となる(蔵米300俵)。 |
1735年 (享保20年) |
17歳 | 3月 家督を相続する(知行600石)。 |
1737年 (元文2年) |
19歳 | 12月 従5位下主殿頭に叙任。 |
1745年 (延享2年) |
27歳 | 9月 徳川吉宗が隠居し、徳川家重が将軍となり、意次は本丸小姓を拝命する。 |
1746年 (延享3年) |
28歳 | 7月 小姓頭取となる(年100両)。 |
1747年 (延享4年) |
29歳 | 9月 御用取次見習(足高1400俵) |
1748年 (寛延元年) |
30歳 | 閏10月 小姓組頭番頭、御用取次見習兼務(1400石加増され2000石)。 |
1750年 (寛延3年) |
32歳 | 長子・意知が誕生する。 |
1751年 (宝暦元年) |
33歳 | 7月 御用取次となる。 |
1755年 (宝暦5年) |
37歳 | 9月 5000石に加増。 |
1758年 (宝暦8年) |
40歳 | 9月 5000石加増され1万石の大名になる。 郡上藩一揆審理のため評定所出席を受命する。 11月 遠州相良藩主となる。 |
1759年 (宝暦9年) |
41歳 | 藩内に「申渡」を行い、養蚕の奨励やハゼの植樹などを指示。 |
1760年 (宝暦10年) |
42歳 | 藩内に「申渡」を行い、倹約の励行や農作業への精進を指示する。 4月 徳川家重が隠居し、徳川家治が将軍となる(意次は御用取次を留任)。 |
1762年 (宝暦12年) |
44歳 | 2月 1万5000石に加増。 |
1765年 (明和2年) |
47歳 | 4月 家康150回忌日光東照宮法要に参列。 9月 5匁銀・鉄銭鋳造。 |
1767年 (明和4年) |
49歳 | 7月 側用人となる(2万石に加増)、従4位下叙位。 遠州相良に築城許可。 神田橋御門内に屋敷拝領。 12月 大坂で家質奥印差配所。 |
1768年 (明和5年) |
50歳 | 4月 相良城築城工事が始まる(~1780年(安永9年)完成)。 |
1769年 (明和6年) |
51歳 | 2万5000石に加増。 侍従叙任。 側用人兼務の老中格。 |
1772年 (安永元年) |
54歳 | 2月 屋敷類焼で公儀拝借金1万両。 5月 老中(兼側用人)となる(5000石加増で3万石)。 9月 南鐐二朱銀発行。 |
1776年 (安永5年) |
58歳 | 4月 将軍・家治の日光社参に供奉。 |
1777年 (安永6年) |
59歳 | 4月 7000石加増され3万7000石。 9月 一揆禁止令高札掲示。 11月 将軍・家治の小松川筋お成りに随行。 |
1778年 (安永7年) |
60歳 | 1月 世子・家基の千住筋お成りに随行。 7月 甥・田沼意敦が一橋家家老となる。 11月 将軍・家治の本所筋お成りに随行。 11月 下屋敷拝領。 |
1779年 (安永8年) |
61歳 | この年、相良城本丸二重櫓が完成する。 4月 世子・家基の葬儀。 8月 将軍・家治の大川筋お成りに随行。 |
1780年 (安永9年) |
62歳 | 4月 初めて相良城に入城する。 8月 大坂に鉄座、江戸・京・大坂に真鍮座を新設する。 |
1781年 (天明元年) |
63歳 | 4月 将軍・家治養子の選定を受命。 7月 1万石加増され、4万7000石。 8月 絹糸貫目改所の設置を図るも、反対の打ちこわしで撤回。 12月 息子・意知、奏者番。 |
1782年 (天明2年) |
64歳 | 印旛沼・手賀沼干拓、利根川掘割を着工。 |
1783年 (天明3年) |
65歳 | 11月 息子・意知、若年寄拝命 |
1784年 (天明4年) |
66歳 | 3月 息子・意知が、江戸城内で佐野政言に斬られ死去。 6月 孫・意明を相続者に許可 |
1785年 (天明5年) |
67歳 | 1月 加増され5万7000石に。 12月 米の買い占めを禁止し、豪商に御用金徴収。 |
1786年 (天明6年) |
68歳 | 6月 全国に御用金 8月 将軍・家治が死去 老中を辞任させられ、雁間詰に降格となる。 印旛沼干拓工事中止。 閏10月 石高2万石没収、神田屋敷・大坂蔵屋敷の明け渡し、謹慎を命じられる。 12月 謹慎解除。 |
1787年 (天明7年) |
69歳 | 1月 登城し、家斉に拝賀。 6月 松平定信が老中を拝命し、寛政の改革が始まる。 9月 相良藩士に説諭。 10月 石高2万7000石を没収され、隠居・蟄居となる(相続者・意明に1万石を安堵)。 11月 相良城を没収される。 |
1788年 (天明8年) |
70歳 | 7月 江戸で死去。 駒込勝林寺に埋葬。 |
田沼意次肖像画(牧之原市史料館所蔵) ※史料館1階に実物が展示中
【意次誕生】
田沼家の転機、出世コースのはじまり。
田沼氏の転機は、16代意行【おきゆき/もとゆき】のときに起こりました。
享保元(1716)年、当時の紀州藩主・徳川吉宗が、江戸幕府の8代将軍になったからです。
側近だった意行は、吉宗に従って江戸に行き、将軍の小姓(こしょう)・300石(後に600石)の旗本(はたもと)として幕府に仕えました。
そして、その3年後の享保4(1719)年、意行に待望の長男が生まれます。
龍助(りゅうすけ)と名付けられたこの男の子こそ、のちに側(そば)用人(ようにん)・老中(ろうじゅう)へと出世し、田沼時代と評される一時代を築いた大政治家・田沼意次その人でした。
【意次の登場】
田沼時代の始まり
田沼意次の相良領図(『相良町史』通史編上巻 相良町 1993年 p543より転載)
宝暦8(1758)年、9代将軍・家重(いえしげ)は、ある男に相良・川崎など榛原郡5000石の土地を与えました。
男の名は田沼意次(たぬまおきつぐ)。
この加増によって、彼は合計1万石の領地を手に入れ、大名の仲間入りを果たしました。
その2年後の宝暦10(1760)年、家重は息子の家治(いえはる)に将軍職を譲りました。
そして、意次は「またうとのもの」(=正直者・律義者)なので、引き続き重く用いるように助言します。
家治はこの言葉を守り、側用人(そばようにん)や老中(ろうじゅう)に任じて様々な政策を行わせました。
田沼時代はここから始まったのです。
【相良城の築城】
田沼時代の始まり
「市指定文化財 仙台河岸」【伝相良城の船着場跡】(牧之原市相良313)
明和4(1767)年、側用人になった意次は、さらなる加増を受けて合計2万石の大名になり、相良に築城することを許されます。
工事は翌5(1768)年から始まり、安永9(1780)年に完成しました。
また、城下町の建設にも取り組み、防火のために町家(まちや)の屋根を板や瓦にかえたり、交易のために相良・川崎・藤枝間を結ぶ田沼街道をつくったりしました。
こうした政策は、相良湊や川崎湊の価値をさらに高め、郷土をますます発展させました。
【政治と功績】
相良城の築城
百花(ひゃっか)稲荷(いなり)の相良城石垣
父・意行が将軍と近しい関係であったため、意次は若い頃から将軍の側に仕え、9代家重の小姓(こしょう)に抜擢(ばってき)されます。
ここで評価を得た意次は、10代家治からも信頼されて出世を重ねます。
意次がこの地にやってきたのは、宝暦8(1758)年のことです。
榛原郡などに1万石を与えられて、相良を拠点とする大名になり、最終的には5万7千石まで加増されました。
郷土における意次の功績のなかで、最も代表的なものは相良城の築城です。
工事は明和5(1768)年にはじまり、12年後の安永9(1780)年に完成しました。
【政治改革】
画期的な貨幣の通用
南鐐二朱銀【左:表面・右:裏面】(牧之原市史料館所蔵)
江戸幕府の政治改革としては、享保・寛政・天保のいわゆる三大改革が良く知られています。
しかし、近年では田沼時代の改革もそれらと同じくらい凄いと評価されています。
例えば、明和9(1772)年発行の南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)は、日本で初めて本格的に通用した計数銀貨(けいすうぎんか)(額を表示して、価値を一定にした銀貨)です。
それまでの銀貨は、重さを量って価値を決める秤量貨幣(しょうりょうかへい)であったため、たいへん画期的な貨幣でした。
取り扱いの簡単なこの銀貨によって、商売はよりスムーズになり、経済の活性化につながりました。
【まちづくり】
田沼街道をつくり、まちが活発になった
田沼街道の起点・湊橋
意次は相良城の築城と一緒に、城下町(じょうかまち)の建設を進めました。
引越料を出して家を移転させたり、土地を買って道を広げたりして、町を大きくしていったのです。
また、それまで船で渡っていた萩間川に、はじめて正式な橋(現在の湊橋(みなとばし))をかけたのも意次でした。
そして、この湊橋を起点に川崎湊を通って、藤枝(東海道)まで繋がる街道(通称:田沼街道(たぬまかいどう))をつくりました。
こうした政策により、相良三町(新町(しんまち)・前浜(まえはま)町・市場(いちんば)町)の人口は約1.5倍に増加し、人や物の往来が活発になりました。
【時代の終わり】
運命の分かれ道
「佐野善左衛門による意知刃傷事件挿絵」『今古実録 田沼実記』(個人蔵)より転載
天明2(1782)年頃、江戸時代最大の飢饉(ききん)・天明(てんめい)の大飢饉(だいききん)が発生したことで、意次の運命は大きく変わります。
天明2(1782)年から天明8年にかけて、90万人以上の死者を出したとされるこの大災害(異常気象)は、意次の評判を大きく落とします。
さらに天明4(1784)年、嫡男(ちゃくなん)の意知(おきとも)が刃傷(じんじょう)事件をきっかけに死亡。
同6年には、10代将軍・家治(いえはる)が死去しました。
これによって意次は失脚(しっきゃく)し、領地や屋敷は没収されてしまいます。
天明8(1788)年には相良城が取り壊され、城地はただの畑地になってしまいました。
【つくられた悪評】
江戸時代のゴシップ誌
「丙午評判記」『未翻刻明和天明珍本六種』(個人蔵)より転載
日本の歴史上、注目すべき政策を行ったにもかかわらず、田沼意次といえば賄賂(わいろ)政治家のイメージが強くあります。
では、その悪評はどこから来たのでしょうか。
じつは、意次=賄賂という構図は、江戸時代の史料にもたくさん出てきます。
ただし、そのほとんどが根も葉もない噂話を集めたゴシップ誌で、画像のように脚色されています。
当然、これらの読み物を信用することは出来ません。
しかし、庶民には面白おかしい内容だったため、とても流行しました。
意次悪人説は、娯楽のネタとして広まったのです。
【史跡・文化財】
現代にも伝わる伝統行事
国指定重要無形民俗文化財 大江八幡神社の御船行
意次がもたらしたものは、着実に人々に根づいていました。
城下町や街道の整備は、相良湊や川崎湊をさらに発展させて、御船神事という伝統ある行事を生み出しました。
意次がいなければ、御船神事はなかったかもしれません。
また、『遠江国相良城図』(聖心女子大学図書館所蔵)など江戸時代の絵図と相良市街地を比べると、町割りが良く似ていて、現在の町並みは城下町を基にできたことがわかります。
これらのことから、田沼家の存在が牧之原市の歴史と文化をつくったと言っても過言ではないでしょう。